冬将軍

冬の天気予報でよく耳にする「冬将軍」は、「シベリア気団」あるいは「シベリア気団によってもたらされる強い寒さ」を表現する言葉です。シベリア気団は、冬季にシベリアや中国内陸部で放射冷却により冷たい空気が蓄積されて強まる高気圧です。日本の冬におなじみの気圧配置「西高東低」のうち、「西高」を構成しています。このシベリア気団からの冷たく乾燥した風が日本付近で北西の季節風となって吹くことで、厳しい寒さをもたらします。

ではなぜ、シベリア気団が冬将軍と呼ばれるようになったのでしょうか。その歴史は19世紀まで遡ることになります。フランス革命後に数々の戦果を上げ、フランス皇帝となっていたナポレオンは、1812年、ロシアへの侵攻を決意します。当時、フランスがヨーロッパ諸国にイギリスとの交易を禁じる「大陸封鎖令」を出していましたが、ロシアがこれを破ったことが理由でした。4月、ナポレオンは約50万という空前の大群を率いてロシアへの遠征を開始します。兵力に劣るロシア軍を撃破し、9月にはモスクワを占領します。ところが、ロシアは講和に応じず、大陸軍のモスクワ駐在は長引きます。さらに、ロシア軍はモスクワ市街に放火するなど焦土作戦をとっていたため、大陸軍は満足な宿舎や食料などの物資を調達できず、次第に消耗していきます。そこへとどめを刺したのが、ロシアの厳しい寒さでした。

10月、ついにナポレオンは退却を決意しますが、この年は東欧へのシベリア気団の訪れが例年より早く、厳しい寒さが大陸軍を容赦なく襲います。12月までかかった撤退は、ロシア軍の追撃だけでなく、農民のゲリラ攻撃、飢えと寒さに苦しめられる辛い戦いに追い込まれました。「飛ぶ鳥も死んで地面に落ちるほどの寒さ」のロシアの冬が大陸軍の大敗を決定的なものにしました。ロシア遠征では約24万もの犠牲者が出た他、脱走兵や捕虜となった者も多く、ロシアを抜け出せた兵はわずか2万だったといいます。多くの精鋭を失ったナポレオンは、その後、勢いを取り戻すことができず、やがてイギリスを含む同盟軍のパリ入城、そして退位を余儀なくされました。

ロシア遠征は、ヨーロッパ全てを支配する勢いだったナポレオンの転換点として記憶され、ロシアの寒さは「最強の」ナポレオン軍を破った「冬将軍」と呼ばれるようになったのです。ちなみに、シベリア気団のもたらす寒さは、ナポレオンだけでなく、ドイツのヒトラーのソ連侵攻(194145年)やスウェーデンのカール12世のロシア遠征(18世紀)も撃退し、やはり戦争の転換点になったと言われています。日本においても東北の冬は寒く健康を害する地と言われたり、極寒により稲作には不適な地でもあったので多くの餓死者を出していたそうです。越後の上杉謙信が温暖な気候を目当てに関東を度々侵攻していたのは当時、多くの兵が手っ取り早く暖をとれる方法として考えていたとも言われています。飢饉による食糧難で人心が乱れ始め、食糧難が原因で略奪が横行し、それにより世情不安に拍車がかかり、各地で戦争が発生するという負のスパイラルが戦国期には起こっていました。冬の日本海側は冬型の気圧配置に覆われ、晴れの日が少なく、厳しい寒さになります。関東平野に出ると晴れの日が多く温暖であるので謙信は「自然の暖房地」と感じたのでしょうか。